2006年4月13日 ラファエラ ボーローニャ さん
バルベーラのパイオニア!ブライダを訪問! |
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バルベラの改革の父と呼ばれるジャコモボローニャさんが逝去されたのが1990年。 初めてバルベーラを新樽に入れた話は伝説的に語り継がれています。 ジャコモボローニャさんが新樽に入れたあと、心配でアンジェガヤに電話した話。 「大丈夫だ!大丈夫だ!」とアンジェガヤに励まされた話。初めてのことに挑戦することは誰にとっても大変なプレッシャーなのですね。 そんな数々の挑戦を乗り越えたからか、ブライダのバルベーラはとてもエレガントで自然なおいしさ。 今回のブライダ訪問では、亡くなって今なお話題になる、ジャコモボローニャさんの話が伺えたらいいなぁと思ったわけです。 |
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13日はとてもいいお天気で美しいモンテブルーナの丘は凄然と、列を組んで仕立てられたぶどうの木々が足元にタンポポの黄色い花を咲かせていて、美しいと思わず言わずにはいられないほど。 焼けるような日の光が肌にじりじりとするのですが、丘を吹き抜ける風はすずしくてぶどうの木々たちが最高の環境の中にいるのを実感しました。 ブライダはそんな丘のふもとにある美しいカンティーナで、ジャコモボーローニャ氏の娘ラファエラさんが迎えてくれました。 40ヘクタールを所有し、最大の18ヘクタールのモンテブルーナの畑を見せてもらいました。 ラファエラ「ほら見て、コレは8年たったぶどうの木で6つの芽をつけているでしょ。すべてこのぶどうの木は6つの芽がでるようにしたててあって、うち5本にぶどうの房をつけさせるの。6つめの幹に近い芽はチエカといってぶどうの房はつけさせないのよ。」 アッピ「なんでぶどうの房をつけさせないの?」 ラファエラ「チエカというのは目の見えない人って言う意味のイタリア語。ぶどうの房をつけさせないのは、葉っぱはその分必要なんだけどぶどうはならせないの。葉っぱのために必要な芽という訳」 ─イタリアのぶどう栽培者たちが、光合成を十分にするために必要な葉っぱの総面積などを綿密に計算して栽培していることをこのとき思い出していました。 ラファエラ「この畑は1ヘクタールあたり4,500株を栽培しているの。あまり房をつけないぶどうの木を植えているので密植させているのよ。 アッピ「ラファエラさんはエノロゴ(醸造担当)なんでしたでしょうか?」 ラファエラ「ええ。私が醸造担当でベッペが畑担当よ。」 アッピ「ベッペ?」 ラファエラ「弟のジュゼッペよ。ジュゼッペがベッペで。ラファエラはラッファ。イタリアは名前をこんな風に短くしちゃうのよ。アキコだったらアキとかキコとかね」 アッピ「笑」 ラファエラ「グイヨ仕立てのこの低いぶどうの木のしたては、地熱を十分に吸収させるためなのよ。」 ─少し歩くと、畑に車の部品が落ちていました。 ラファエラ「昨日、泥棒が来たのよ。農機具を積んだ車を盗もうとしたみたいなんだけど。その車には、畑の作業している人たちのお財布とかも乗っていて、それをみんなが見つけたから他の車で、追撃して、車に、車をぶつけてとめたんだけど。警察とかが来て大変だったの。こんな車の部品。早く片付けなくちゃ」 アッピ「こんなところで泥棒?」 ラファエラ「ピエモンテもニューヨークみたいになっちゃった。あんなことぜんぜんないことだったのにまったく、困ったものだわ。」 ─畑の一部にぶどうの木がなく、土が耕されているエリアまで歩いてくると ラファエラ「古い樹齢の木を抜いて1m50cm掘り返して牛糞を入れたところなの。」 アッピ「バルベラの寿命というのはどの位なんですか?」 ラファエラ「60年位かしら。あまり年を取るとやっぱり病気がちになったりするのでそれ以降の畑はこうして掘り返して植えなおすようにしています。」 アッピ「バイオダイナミック農法というんでしょうか(有機的な栽培方法)」 ラファエラ「バイオダイナミックっていうのは、工場生産の人たちが言っているだけで、別に普通の作り方だと思っています。自分が飲むワインなので、自分が飲めないようなものは作りません。」 ─耕された畑の向かいに、ハーブのような草だらけの畑がありました。 アッピ「この草はなんですか?」 ラファエラ「1年目に耕した畑に、2年目になるとこの草を植えます。この草の名前はエルバメディカといいます。ウサギがよく食べるくさですね。この草はN(窒素)を発生させるんですね。」 ─私が草をとってにおいがかぐと ラファエラ「特ににおいはないの。この土地にはあとで、バルベラを植える予定です。私の血はバルベーラでできていますから」 アッピ「(思わず)川島なおみみたいですね」 ラファエラ「40ヘクタールあるうち30年から50年の樹齢の木が20ヘクタールに、それより若い木が残り20ヘクタール。2から3年ごとに樹齢の古くなりすぎた畑を掘り返して新しく植え替えていくようにしています。」 アッピ「それにしても、3年も畑を休ませたり。ぶどうの房がなるようになるのにまた時間がかかりますよね」 ラファエラ「ええ、3年畑を休ませて、房がなるようになるにはそこから5年から6年。つまり9年間はワインを造らない畑があるということですね。土壌もこの循環が大事なんです。ものすごい忍耐力のいることですよ。」 ─丘と丘が交差して美しいブドウ畑が続いて見えるブライダの丘。タンポポの黄色が色鮮やかで思わずピクニックをしたいと思うほど、ほっと安らぐ風景にため息が出そうになりました。 ラファエラ「私もこの風景が大好き。まるでここはピエモンテというよりもトスカーナという感じもしているの。ほとんどのワインの生産者は合格の品質のワインを造っているけれど私たちが目指しているのは頂点。聖人サンピエトロに捧げるようなワインを造りたいと思っています。」 ─聖人サンピエトロに捧げるワインと言ったときに、ふと私は、亡くなったお父様に捧げるワインと言っているようにも聞こえたような気がしました。 ラファエラ「この地域には、幸い工場などがないので一切の汚染がありません。 ─畑の途中に、廃墟となった小さなワインの貯蔵庫があり、それを指差してラファエラさんが ラファエラ「ここはかつて醸造をしていたところなのですが、いつか弟のベッペ(ジュゼッペ)がここを立派にして自宅を立てようと考えています。今のところ夢ですが。夢を持つことは大事ですよね」 |
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─その後私たちは丘の下にある、カンティーナに戻りました。
ラファエラ「ブドウ畑の次に大事なのが、発酵温度です。中性的な性格のワインだから、ステンレスタンクを好んで使用してます。当然清潔で発酵温度の管理あ完璧です。特に発酵に気をつかうのが、イル バチャレ、アイスーマ、モンテブルーナです。」 ─2階のバリック庫にて ラファエラ「うちの場合地下ではなく2階にバリック庫を作りました。94年にこの地域に大洪水があったのですが、ここには被害がありませんでしたが、あまりにも恐ろしいことだったので、2階にバリックの熟成庫を作り直しました。温度管理も完璧です。 ご存知の通り、父はバルベーラの改革者といわれていて、78年にフランスからバリックを取り寄せてイタリアで初めてバルベラーを わたしは、バルベーラをこのような価値のあるワインにした、父のことを本当に誇りに思っていますし、父が亡くなってから15年が経ちますが、今でも、父が考えたことを尊重してワインを造っています。 |
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アッピ「あの、いろいろなところで今なおお父様の話を耳にしますが、いったい、ラファエラさんのお父さんはどんな方だったんでしょうか?」
ラファエラ「一言で言えば、寛大な人でしょうか。父の父、つまり私のおじいさんはワインつくりをしていましたが、若いころになくなりました。 一般的に、人は『見たくないものは見ない』というところがあるものだと思いますが、父は違いました。人のあらゆる面を見つめ受け止める アッピ「お父さんはお母さんのどういうところに惚れられた?のでしょうか(笑)」 ラファエラ「父は母の、かわいらしいところに惹かれたのだと思います。母は料理が不得意ですが、優秀で、趣味がいい人です。カンティーナのデザインは母がすべてしています。私は私の生まれた訳を知っています。ワインの味を見るため、そしてそのワインを世の中の人に飲んでもらうためです。」 アッピ「ラファエラさんのご主人はお医者さんと聞きましたよ。」 ラファエラ「主人と知り合ったのは、ヴィタリーです。ウチェローネにぞっこんだった主人は、ウッチェローネの次に私のことを好きになったんですね。 |
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この後、私たちは、ラファエラさんのご自宅に招いていただき、ラファエラさんのお母様と、ラファエラさんのご主人と一緒に食事をしました。
その日は、ルーマニア人のお手伝いさんアンナさんが、初めてすべてのお料理を作ったデビューの日で。お母様の指導のもとおいしい、家庭のお昼ご飯をご馳走になりました。 |
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■インタビューを終えて | ||
ラファエラさんが、お父様の話をするとき、それは生き生きとされていて、家族が亡くなってから15年経つ今でも、その考えを継承し発展させて努力している様子がお分かりいただけるのではと思います。
だから、お話を聞いている間中も、お父様のジャコモボローニャさんがそこにいるような、暖かさを感じてしまいました。 ブライダは本当にオープンなワイナリーで、日本からたった一人の客人が訪ねても、大歓迎してくれるようなワイナリーです。 ぜひ、自然に根ざしたブライダのワインを一度お召し上がりいただけたらと思います。 |
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2006年4月13日 ブライダ訪問
2006/04/13