2015年5月29日 マルティーノ マネッティ氏
サンジョヴェーゼ100%スーパートスカンの元祖「モンテヴェルティーネ」突撃インタビュー |
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キャンティクラシコの銘醸地ラッダインキャンティで、サンジョヴェーゼ100%のワインを造りたいという想いからキャンティクラシコ協会を脱退。当時、誰も造ろうとしなかった、サンジョヴェーゼ100%ワインがあの「レ ペルゴーレトルテ」。毎年変わる女性の顔のラベルも人気で、コレクター垂涎のワインとして有名です。今日は、創業者のセルジオ氏の息子さんで現オーナーのマルティーノさんと白金台の「ビッフィテアトロ」さんでランチをとりながらワイナリーの歴史と現在について楽しくお話をお伺いすることができました。 | ||||||||||
趣味で造りはじめたワインがヴィーニタリで評判に。友人でエノロゴのジュリオ ガンベッリと二人三脚でモンテヴェルティーネを発展 |
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モンテヴェルティーネは、私の父で当時鉄鋼業を営んでいたセルジオが1967年にラッダ イン キャンティに別荘として購入したのが始まりです。2haほどの畑にブドウの樹を植えて、家族や友人と飲むためのワインを造ろうと考えていたのですが、初めて造った1971年ヴィンテージのワインがとてもいい出来で、ヴィーニタリに出品したらあっという間に評判になったんです。それで父はワイン造りに本腰を入れることにして、やがて本業だった鉄鋼業を辞めて、ワイナリーに専念したのです。
素人がいきなり造ってもいいワインはできません。やはりそれはラッダインキャンティという土地のポテンシャルの高さと、優秀な協力者がいたからです。当初から父の友人で偉大なエノロゴのジュリオ ガンベッリがワイン造りについて指導をしてくれました。ジュリオガンベッリはモンタルチーノ、キャンティクラシコエリアを中心に多くのワイナリーの醸造に携わってきたエノロゴで、例えば、カーゼバッセやポッジョディソット、ビッビアーノなどもジュリオが指導をしてきました。 モンテヴェルティーネはジュリオのアドバイスのもとワインを造ってきました。彼がいなければ今のモンテヴェルティーネはありません。2012年1月にジュリオは亡くなりましたが、彼のワイン造りの考え方を現在も踏襲しています。 |
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トスカーナの伝統品種だけを使った3つの赤を造る。家族経営ワイナリーの小さな規模に見合った生産しかしない |
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設立当初からモンテヴェルティーネはトスカーナの伝統品種だけを造っています。つまり、サンジョヴェーゼ、カナイオーロ、そしてコロリーノです。ワインもセメントタンクでアルコール発酵からマロラクティック発酵を行い、スラヴォニア産オークで熟成させる、という伝統的な造りを続けています。
造っているワインはピアン デル チャンポーロ、モンテヴェルティーネ、レ ペルゴーレトルテの3つです。2haだった畑は少しずつ広げていって今は18haになりました。私たちは最初からずっと家族経営のワイナリーです。私たちの目の届く範囲で、高い品質を保つためにはこれ以上大きくしない方がいいと考えています。ブドウ品種も、トスカーナの多くのワイナリーでは国際品種も植えていますが、私たちは伝統品種だけでそれを変えるつもりもありません。 |
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「サンジョヴェーゼ100%ワインを造る」キャンティクラシコ協会を脱退して通した信念 |
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初めて造ったワインがヴィーニタリで評判になり、父はサンジョヴェーゼだけでワインを造ろうと考えました。当時の法律ではサンジョヴェーゼに他の白ブドウ用の品種を混ぜなければキャンティDOCGを名乗れなかったので、ラッダ イン キャンティという伝統的なエリアではもちろん、サンジョヴェーゼ100%のワインを造るなど、誰も考えもしなかった時代です。だから本当に画期的なことでした。
サンジョヴェーゼ100%にこだわったのは、単純にサンジョヴェーゼだけのワインを造ってみたかった、ただそれだけです。周囲からは「(頭が)おかしいんじゃないか」などと言われましたが、父は気にしなかったんですね。1981年まではキャンティ協会に属していてキャンティクラシコを造っていましたが、その後、脱退して文字通り「自由に」ワインを造りはじめました。 モンテヴェルティーネのワインを評価してくれた最初のクライアントはアメリカ人でした。実のところ1970年代のイタリアには良質なワインを飲もうという文化がなかったんです。私は1970年生まれですが、子供ごころに多くの外国人がワイナリーに来ていた記憶があります。レ ペルゴーレトルテはアメリカで火がついて、イタリアで有名になりました。そしてイタリアのジャーナリストや高級レストランなどが興味を持ってくれました。 |
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毎年変わる女性の顔のラベルでさらに注目集めた「レ ペルゴーレトルテ」 |
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レ ペルゴーレトルテは最初は普通のラベルでした。1982年から女性の顔のラベルに変わりましたが、1987年までは12本入りの箱の中に3本だけが女性の顔のラベルにしていました。すると、市場では顔のラベルの方が高く売られてしまった。中身は同じなのに値段が違うのはよくないと1988年からはすべてのボトルを女性の顔のラベルにしています。
ラベルをデザインしているのは父の友人の画家アルベルト マンフレディです。毎年「今年はこの顔!」と言って渡されるだけなので、私たちから「こういうデザインにしてほしい」とかリクエストしたことはありません。アルベルトは2001年に亡くなりましたが、それからは彼のデザイン画をもとに毎年ラベルを決めています。 白金台のレストラン「ビッフィテアトロ」さんで、 |
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■インタビューを終えて | ||||||||||
当時キャンティクラシコ地区という恵まれたエリアでブドウ作りをしていながら、サンジョベーゼ100パーセントのワインを造りたいという一心でペルゴレトルテを造り、キャンティクラシコ協会も脱退するということは、周囲の人たちから見れば信じられないほどおかしなことに見えたのに、それを構わず自分の意志を貫きとおした、初代のセルジオさんとはどんな人だったのかと、率直に尋ねたところ、
「父は生れ自体は貧しい家に育ちましたので、自分で稼ぐという気持ちの強い人です。また、新しいことを考え、正しい選択をする人でもあります。一見するとあまり社交的ではなく、気難しそうに思われますが、実は寛容な人です。ただ、「それはいいね」と言いながら最後決断するのは全部自分という厳しい人でもあります。」 と答えてくれました。傑出したワイン造りの陰には必ず強い信念を持った人がいるということを改めて思い知らされたインタビューとなり、また、そういうワインにかかわれる喜びを感じるとともに、その想いをお客様にもっと伝えていかなくては決意を新たにしました。 |
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2015年5月29日 モンテヴェルティーネ社 マルティーノ マネッティ氏
2015/05/29